飛鳥の明日香の里を(明日香村)/コラム/壬申の乱のあと ― 天武天皇は、国の何を作り直したのか
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壬申の乱に勝って飛鳥に戻った天武天皇は、大臣を置かず、皇族とともに国を動かしました。豪族の民を国のものにし、家の格と人の位を天皇が決め、法と国の歴史を書かせる。律令国家の骨組みが見えてくるまでの14年をたどります。
672年、壬申の乱に勝った大海人皇子は、近江の大津宮には入らず、飛鳥へ戻りました。翌673年2月、飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)で即位します。天武天皇です。
この勝利は、古い豪族の力をそぎ落とすことにもなりました。近江の朝廷を支えた左大臣の蘇我赤兄(あかえ)は流され、右大臣の中臣金(なかとみのかね)は斬られています。天智天皇のもとで朝廷を動かしてきた有力者たちが、負けた側にいたのです。
天武天皇が亡くなるまでの14年ほどのあいだに、国のしくみは大きく作り直されました。その流れを年表にまとめると、次のようになります。
天武天皇は、在位のあいだ一度も大臣を置きませんでした。かつて蘇我氏が大臣として朝廷の頂点に立ち、天智天皇の代にも左右の大臣がいたのとは対照的です。
政治の中心にいたのは、天皇自身と、皇后の鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ、のちの持統天皇)、そして草壁・大津・高市といった皇子たちでした。のちの研究ではこれを「皇親政治」と呼んでいます。有力な豪族に任せるのではなく、天皇とその身内が直接国を動かす形です。
675年、天武天皇は、天智天皇の代(664年)に豪族たちへ与えていた部曲(かきべ)をやめさせました。部曲とは、豪族がそれぞれ私的に抱えていた民のことです。あわせて、皇族や豪族、寺に与えていた山や林、池なども取り上げています。
土地と人は国のものという原則は、乙巳の変のあとの改新の詔で掲げられていました。天武天皇は、それを実際に押し進めたことになります。
673年、天武天皇は、はじめて朝廷に仕える者はまず大舎人(おおとねり)として天皇の身近に仕え、そのうえで才能に応じて職に就ける、と定めました。678年には、役人の勤務ぶりを毎年評価して位を上げる決まり(考選法)も作られています。
家柄だけで役が決まるのではなく、天皇のそばで見られ、働きで位が上がっていく。役人という仕事の形が、ここで整えられていきました。
684年、天武天皇は八色の姓(やくさのかばね)を定め、豪族の家の格を、天皇との近さで八つに並べ直しました。真人・朝臣・宿禰が上の三つで、かつて朝廷の頂点を分け合った臣と連は、6番目と7番目に下がります。詳しくは別のコラムで取り上げています。
翌685年には、一人ひとりに与える冠位も改められました。皇族には明(みょう)・浄(じょう)の12階、臣下には正(しょう)・直(じき)・勤(ごん)・務(む)・追(つい)・進(しん)の48階。それぞれを大・広に分け、さらに数で細かく刻んでいます。
大事なのは、皇族も位の中に入ったことです。603年の冠位十二階では、皇族や、大臣だった蘇我氏は位の外にいました。天皇だけが位を与える側に立ち、皇族を含むほかのすべての人が、その下に順に並ぶ形になったのです。
家の格を示す姓と、一人ひとりの位を示す冠位。その両方を、天皇が決めるしくみができあがりました。
681年2月、天武天皇は皇子たちと群臣を集め、律令を定めるよう命じました。この仕事は天武の死後に引き継がれ、689年、持統天皇のもとで飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)として施行されます。のちの大宝律令の土台になった法令です。
翌月には、川島皇子ら12人に、帝紀(天皇の系譜)と昔の出来事を記し定めるよう命じています。国の歴史を、国が書く。この仕事はやがて712年の『古事記』、720年の『日本書紀』へとつながります。
682年には、朝廷でひざまずいたり、はって進んだりする礼をやめ、立ったまま行う礼に改めました。同じ年、男も女も髪を結い上げるよう命じています。唐の宮廷にならった作法と身なりです。
684年には「政の要は軍事なり」という詔を出し、役人たちに武器を備え、馬に乗る稽古をするよう命じました。戦で位に就いた天皇らしい言葉です。
683年4月、天武天皇は「今より以後、必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いることなかれ」という詔を出しました。この銅銭にあたると考えられているのが富本銭(ふほんせん)です。
1990年代の終わり、飛鳥池工房遺跡の発掘で、富本銭が鋳型や鋳くずとともに大量に見つかりました。708年の和同開珎より古い銭が、飛鳥で実際に造られていたことが確かめられたのです。ただし、どこまで貨幣として使われたのか、まじないの銭として造られたのかは、議論が続いています。
同じ遺跡からは、「天皇」と書かれた天武天皇の時代の木簡も出ています。「大王(おおきみ)」に代わって「天皇」という呼び名が使われはじめたのは天武天皇のころ、とする見方が有力です。
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天武天皇は、国が営む寺も整えました。673年に高市大寺(たけちのおおでら)を造り、のちに大官大寺(だいかんだいじ)と改めています。680年には、皇后の病の回復を願って薬師寺の建立を発願しました。いま明日香村と橿原市に残る大官大寺跡と本薬師寺跡は、その流れを汲む寺の跡です。
そして天武天皇は、晩年に新しい都の場所を定めています。碁盤の目に道を通した藤原京です。けれども天武は、その完成を見ないまま686年に亡くなりました。
天武天皇の仕事を引き継いだのは、皇后だった持統天皇です。689年に飛鳥浄御原令を施行し、690年には全国の戸籍(庚寅年籍)を作らせ、694年に藤原京へ遷りました。そして701年、大宝律令が完成します。
大臣を置かず、豪族の民を国のものにし、家と人の位を天皇が決め、法と歴史を国が書く。律令国家の骨組みは、天武天皇が飛鳥浄御原宮にいた14年のあいだに、ほぼ形を見せていたといえます。
天武天皇が政治を行った飛鳥浄御原宮は、飛鳥宮跡の上層にあたると考えられています。いま見られる石敷きや井戸の跡は、この時代の宮のものです。
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天武天皇は、持統天皇とともに、明日香村野口の天武・持統天皇陵に葬られています。
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