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宮より先に、京があった ― 日本書紀と発掘で読む藤原京の18年

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藤原京への遷都は694年。けれども都づくりは、その18年前に始まっていました。工事は二度止まり、そのたびに計画が練り直されています。しかも、宮の場所が決まったのは、街区の工事が始まったあとでした。

694年は、終わりの年

朝堂院南門跡の解説板と、柱の位置を示す朱色の列柱
藤原宮跡の朝堂院南門跡。朱色の列柱が柱の位置を示す

持統天皇8年(694)12月、天皇は飛鳥浄御原宮から藤原宮へ移りました。日本で最初の本格的な都城、藤原京の始まりです。

ただ、694年は工事が始まった年ではありません。『日本書紀』をたどると、都づくりは18年前に始まり、少なくとも二度止まっています。

676年 ―「新城」と、荒れた田

天武天皇5年(676)の記事に、「新城(にいき)」に都を造ろうとしたことが書かれています。予定地の中の田は、公の田も私の田も耕すことを禁じられ、すべて荒れてしまいました。しかし、結局都は造られなかった、と記事は続きます。

「新城」は地名ではなく、新しく造る都を指す言葉だったとみられています。場所は飛鳥の北西、天香具山の西から北にかけての平地と考えられています。

なぜ、飛鳥を出たのか

飛鳥は、山と丘に挟まれた細長い谷です。推古天皇の豊浦宮から天武天皇の飛鳥浄御原宮まで、宮はほぼこの谷の中で建て替えられてきました。

ところが7世紀の後半になると、役人の数が増え、宮で行う政治や儀式も大きくなります。谷の中では、宮を広げることも、役人を近くに住まわせることもできません。

天香具山の向こう、北に開けた平地なら、大きな宮と、そのまわりに碁盤の目の街を広げられます。都づくりは、飛鳥の谷から外へ出るところから始まりました。

682年・684年 ― 再開と、宮の場所

天武天皇11年(682)、天皇は三野王(みののおおきみ)らを新城へ遣わして地形を調べさせ、あらためて都を造ろうとしました。工事の再開です。

この間、天武天皇は藤原だけを見ていたわけではありません。天武天皇12年(683)には、「都城や宮室は一か所ではなく、必ず二つ三つ造る。まず難波に都を置こう」という詔を出しています。翌684年2月には、畿内に使いを送って都にふさわしい土地を探させ、信濃にも人を遣わして地形を調べさせました。

都を複数置くという構想の中で、飛鳥の北の平地に、新しい本拠を定めていったことになります。

そして天武天皇13年(684)3月、天皇は京師(みやこ)を巡り、「宮室の地」を定めます。

素直に読めば、京の工事が先に始まり、宮の場所はそのあとで決まったことになります。宮を建ててから、まわりに街を広げたという順番ではありません。

発掘が裏付けたこと

この順番は、発掘でも確かめられています。藤原宮の大極殿などの下から、京の街路と同じ規格の道路の跡が見つかりました。宮の場所にもいったん道路が通され、それを埋めてから宮の建物が建てられたのです。宮より前に引かれたこの道路網は「先行条坊」と呼ばれています。

宮の下からは、資材を運んだとみられる運河の跡も見つかり、天武天皇の末年の年を書いた木簡が出ています。

本薬師寺跡の礎石と石灯籠。百日紅の花が咲き、奥に水田が広がる
本薬師寺跡。京の区画に合わせて建てられた

680年に天武天皇が建てはじめた本薬師寺も、京の区画に沿って配置されています。このころには、すでに街区の線が引かれていたと考えられます。

686年 ― ふたたび止まる

朱鳥元年(686)、天武天皇が亡くなります。大きな工事はここで再び止まりました。

跡を継いだ持統天皇は、夫の計画を引き継ぎます。持統天皇4年(690)10月に高市皇子が藤原の宮地を視察し、12月には天皇自身が足を運びました。

691年 ― 地鎮めと、宅地の割り当て

持統天皇5年(691)10月、使いを遣わして「新益京(あらましのみやこ)」を鎮め祭ります。新益京は、『日本書紀』での藤原京の呼び名です。「藤原京」は、のちの研究者が付けた呼び名です。

鎮め祭るとは、土地の神をしずめ、工事の無事を祈る儀式です。いまの地鎮祭に当たります。宮だけでなく、京全体を対象に祭りを行ったことになります。

同じ年の12月には、役人たちに宅地が割り当てられました。誰がどこに、どれだけの広さの土地をもらうかを、天皇が決めたのです。宅地を配れるほどに、京の区画ができあがっていたことが分かります。

翌692年には藤原宮の地鎮めも行われ、694年の遷都を迎えます。

持統天皇はこの間、何度も藤原へ足を運び、工事の様子を見ています。完成を自分の目で確かめながら、夫が始めた都を形にしていったのです。

遷都のあとも、工事は続いた

694年に移ったあとも、藤原京の工事は終わっていません。宮の周りの施設や寺院の造営は、その後も続きました。

大宝元年(701)の元日、天皇は完成した大極殿に出て、役人や外国の使者から新年の拝礼を受けます。『続日本紀』はこの儀式を「文物の儀、是に備われり」と記しました。国の儀式にふさわしい舞台が、ようやく整ったという意味です。着工から25年がたっていました。

そして710年、都は平城京へ移ります。藤原京が都だったのは16年。造るのに18年、使ったのは16年でした。

一枚の完成図は、なかった

676年の着工から18年。中断のたびに計画は見直され、道路の位置や都の範囲も変わったと考えられています。

藤原京は、最初に一枚の完成図があって、そのとおりに造られた都ではなかったのかもしれません。藤原宮の下に眠る道路は、その途中の姿を伝えています。

歩いてたどる

藤原宮跡では、大極殿の基壇と、朱色の列柱で示された門の位置を見ることができます。南西の本薬師寺跡まで歩けば、京の区画の中に寺が置かれていた距離感がつかめます。

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