飛鳥の明日香の里を(明日香村)/コラム/碁盤の目は、都より先に野にあった ― 大和の古代道
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上ツ道・中ツ道・下ツ道が、約2.1キロずつ離れて南北に走る。この定規が引かれたあとで、藤原京も平城京も設計されました。
奈良盆地には、南北にまっすぐ走る3本の道があります。東から順に上ツ道(かみつみち)、中ツ道(なかつみち)、下ツ道(しもつみち)。7世紀に設けられたと考えられています。
3本は、ほぼ等間隔に並んでいます。その間隔はおよそ2.1キロ。当時の尺度でいう四里にあたります。目分量で通した道ではありません。測って引かれた線です。
東西には横大路(よこおおじ)が走ります。南北3本と東西の横大路。これで盆地に大きな十字が引かれました。
順番が逆だと思われがちです。都ができて、そこから道が伸びた——ではありません。
藤原京は、下ツ道と横大路を基準線にして設計されました。すでに引かれていた直線に合わせて、都の区画を割り付けたことになります。
平城京でも同じです。下ツ道はそのまま都の中心を貫く朱雀大路へ、中ツ道は東の端の東京極大路になりました。野に引かれていた線が、そのまま都の骨格に使われたわけです。
碁盤の目のような都を見ると、中国の都を真似たものだと説明されます。それは間違いではありませんが、真似る前に、この国はすでに盆地へ定規を当てていました。
南北の3本と横大路が盆地を区切る骨格だとすれば、飛鳥から出ていく道は、そこへ接続する枝にあたります。
東西に走るのが山田道(やまだみち)。桜井の磐余から南下して飛鳥を通り抜け、下ツ道との交点である軽の衢(かるのちまた)へ抜けます。阿倍と山田を通るので阿倍山田道とも呼ばれ、推古16年(608年)に隋の使者・裴世清(はいせいせい)が小墾田宮へ向かったのもこの道だとされます。
南へは紀路(きじ)。巨勢路(こせじ)とも呼ばれ、巨勢谷を通って紀伊へ下ります。吉野へは芋峠(いもとうげ)を越える道。大海人皇子が吉野へ退いたときも、この峠を越えたと伝えられています。
古代の官道は、地形を避けません。丘があれば切り通し、谷があれば盛って、直線を通します。歩く人にとっては楽ではない造り方です。
それでも直線にしたのは、道が「速さ」のための設備だったからです。都と地方を結び、使者と軍と税を運ぶ。距離を最短にすることが優先されました。
道幅も、いまの感覚より広く取られています。両側には側溝が掘られました。雨で路面が壊れるのを防ぐためです。造って終わりではなく、維持することを前提にした構造物でした。
これらの道の多くは、国の史跡に指定されていません。遺構として掘り出され、整備されている場所もわずかです。
けれども消えたわけではありません。橿原市には横大路、下ツ道、阿倍山田道が今も道として残っています。明日香村では、石神遺跡と飛鳥水落遺跡のあいだを抜ける県道が、山田道の筋にあたります。
1400年前に引かれた線の上を、いま自動車が走っている。日本遺産「日本国創成のとき」は、この横大路・下ツ道・中ツ道・山田道・紀路を構成文化財に選んでいます。別の日本遺産「最古の国道」は、上ツ道と竹内街道・横大路を扱います。道そのものを文化財として数えるという見方です。
飛鳥の中を歩くだけなら、道を意識することはあまりありません。寺や古墳や石造物が目当てになります。
ただ、村の北へ出て山田道の筋に立つと、見え方が変わります。田のあいだをまっすぐ抜けていく道の先に、桜井の山田寺があり、反対の先に橿原の軽がある。点として訪ねてきた場所が、線でつながります。