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門と広場が見せたもの ― 宮殿が権力を伝える、二つのしかけ

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巨大な門をくぐり、広場を進み、正殿の前に並ぶ。中国の宮殿は、訪れる人に皇帝の力を体で感じさせる装置でした。その仕組みは、難波宮から藤原宮へ、日本の宮にも取り入れられていきます。

誰にでも伝わるもの、学んだ人にだけ伝わるもの

藤原京について聞いた講演で、講演者は、中国の宮殿には二つの働きがあると話していました。

一つは、大きさで圧倒することです。巨大な門、果てしない広場、高い基壇の上の正殿。誰が見ても、皇帝の力が分かります。

もう一つは、建物の並べ方で、皇帝が正しい支配者であることを示すことです。儒教の経典に書かれた配置に沿って宮殿を造る。その意味は、経典を学んだ役人にしか分かりません。

一般の人には大きさで、教養のある役人には設計で。宮殿は、二つの相手に別々のことを伝えていました。

紫禁城 ― 門をくぐるたびに

北京の紫禁城は、二つの働きを兼ねた例です。

天安門から入り、端門、午門、太和門と、門をくぐるたびに広場が開けます。最後に現れる太和殿の前の広場では、即位などの儀式のとき、役人たちが位の順に並びました。映画『ラストエンペラー』で、幼い溥儀の即位を描いた場面の舞台です。

午門は、門の両脇から翼のように楼閣が張り出す形をしています。この形は「闕(けつ)」と呼ばれ、特別な門にだけ許されました。

三つの朝廷と、五つの門

並べ方のほうの基になったのが、経典に説かれる「三朝五門」です。皇帝と臣下が儀式を行う朝廷を三つ、南から北へ並べ、そのあいだに五つの門を置く、という考え方です。

どの門がどの門に当たり、どの殿がどの朝廷に当たるかは、時代によって変わり、研究者のあいだでも説が分かれます。ただ、門と広場と殿を何重にも重ねて奥へ進ませる構成は、3世紀から清の滅亡まで、中国の宮殿に受け継がれました。

魏の洛陽と、卑弥呼の使い

この形を早くに打ち出したのが、3世紀の魏です。魏の明帝は洛陽の宮殿を大きく造り替え、正殿に「太極殿」という名を付けました。

正しい王朝であることを示す必要に迫られた王朝ほど、経典に沿った宮殿を造ろうとした、と講演者は話していました。邪馬台国の卑弥呼の使いが訪れたのも、この明帝のころの魏でした。

長安の大明宮

唐の長安では、大明宮の正殿・含元殿が高い基壇の上に建ち、両脇に翼のような楼閣を従えていました。その前には長い坂道と広場が続きます。

遣隋使・遣唐使として中国を訪れた人たちは、こうした門をくぐり、広場を進み、殿の前で儀式に臨みました。その体験は、強い印象を残したはずです。

前期難波宮 ― 日本の宮が大きくなる

館内の飛鳥京復元模型。飛鳥浄御原宮、川原寺、飛鳥京苑池などが再現されている
飛鳥資料館の飛鳥京の復元模型。藤原宮より前の宮は、掘立柱の建物だった

日本の宮が大きく変わったのは、7世紀半ばの前期難波宮です。それまでの宮よりずっと大きく、南北の軸の上に建物を並べ、たくさんの朝堂に囲まれた広い朝庭(ちょうてい)を設けました。

それより前、推古天皇の小墾田宮(おはりだのみや)でも、外国の使者を迎える舞台は意識されていました。608年に隋の使者・裴世清(はいせいせい)が来たとき、使者は南の門から朝庭に入り、国書をささげています。朝庭の奥にはさらに門があり、その先に天皇のいる大殿がありました。門と庭を重ねる構成は、この時代から始まっています。

講演者は、前期難波宮や藤原宮に三朝五門の制度がそのまま入ったとは見ていません。中国で見た「大きな建物と広場を重ねる」構成の印象を、日本の宮に生かしたのではないか、という見方です。

藤原宮 ― 大極殿の誕生

藤原宮跡に並ぶ朱色の復元列柱。奥は大和三山のひとつ耳成山
藤原宮跡。朱色の列柱が門の柱の位置を示す

藤原宮は、前期難波宮の配置を受け継ぎながら、主な建物を瓦葺き・礎石建ちにしました。朱色の柱に瓦屋根という、東アジアの宮殿の姿です。

そして宮の正殿として、大極殿が置かれました。飛鳥にも大極殿があったとする見方はありますが、宮殿の中心の建物として確立したのは藤原宮です。「大極殿」の名は、魏の「太極殿」にちなむとされます。

大極殿の南には朝堂の並ぶ広場が続き、役人たちはそこに並んで儀式に臨みました。大極殿は平城宮、長岡宮、平安宮へと引き継がれます。2010年に平城宮跡で復元された第一次大極殿も、その流れにある建物です。

701年元日、大極殿の前で

その舞台が最も華やかに使われたのが、大宝元年(701)の元日です。天皇は大極殿に出て、新年の拝礼を受けました。

『続日本紀』によると、正門には烏の形をした飾りを付けた旗竿が立てられ、左には太陽の像と青龍・朱雀の旗、右には月の像と玄武・白虎の旗が並びました。外国の使者たちも左右に並んでいます。記事は、この儀式を「文物の儀、是に備われり」と結んでいます。

2016年度の発掘では、藤原宮の大極殿院の南門のすぐ南で、旗竿を立てたとみられる大きな柱穴が7基見つかりました。中央に1基、その東西に3基ずつ。『続日本紀』に記された7本の旗と数も位置も合うことから、この元日の儀式のときのものと考えられています。

門をくぐり、旗の並ぶ広場に立ち、高い基壇の上の大極殿を仰ぐ。唐の宮殿で遣唐使が味わった体験を、今度は日本の役人と外国の使者が、藤原宮で味わうことになりました。

藤原宮跡に立つ

いまの藤原宮跡には、大極殿の基壇と、門の位置を示す朱色の列柱があるだけです。それでも大極殿の跡から南を見ると、役人たちが並んだ広場の広さは感じられます。

門をくぐり、広場を進み、正殿を仰ぐ。その順番で歩いてみると、宮殿が人に何を感じさせようとしたのかが見えてきます。

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