飛鳥の明日香の里を(明日香村)/コラム/柿本人麻呂 ― 正史に一行も書かれなかった、歌の聖
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『万葉集』を代表する歌人でありながら、『日本書紀』にも『続日本紀』にも名前が出てこない。柿本人麻呂について確かなのは、残された歌と題詞だけです。雷丘の歌から石見での死、そして一人の歌人ではなかったという説まで、分かっていることと分からないことを分けてたどります。
柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)は、『万葉集』を代表する歌人です。後の時代には「歌の聖(ひじり)」と呼ばれ、和歌の神として祀られるまでになりました。
ところが、この人がいつ生まれ、いつ亡くなったのか、どんな官職に就いていたのかは分かりません。『日本書紀』にも『続日本紀』にも、人麻呂の名は一度も出てこないのです。手がかりは、『万葉集』に残る歌と、歌に添えられた題詞(だいし)や注だけです。
そのため人麻呂については、多くのことが推測で語られてきました。なかには、一人の歌人としては実在しなかったのではないか、という説まであります。
作られた年が分かる人麻呂の歌は、689年から700年のあいだに収まります。
いちばん早いのは、689年に亡くなった草壁皇子を悼む挽歌です。いちばん遅いのは、700年に亡くなった明日香皇女(あすかのひめみこ)の挽歌。持統天皇の時代から文武天皇の時代のはじめにあたります。
そのあいだに人麻呂は、皇子や皇女の死を悼み、天皇の行幸に従って土地をたたえる歌をつくりました。宮廷の大事な場面で歌をささげる、宮廷歌人とよばれる立場だったと考えられています。
『万葉集』で人麻呂の作とはっきり書かれた歌は、長歌が20首ほど、短歌が70首ほどです。このほかに「柿本朝臣人麻呂歌集」から採った歌が360首あまりありますが、こちらは人麻呂が自分で詠んだのか、集めた歌なのかが分かっていません。
人麻呂の歌でよく知られるのが、明日香村の雷丘(いかづちのおか)で詠まれた一首です。
大君は 神にしませば 天雲の 雷の上に 廬(いほ)りせるかも(巻三・235)
わが大君は神でいらっしゃるから、天の雲の雷の上に仮の宮を建てておられる。丘の名の「雷」に掛けて、天皇を神としてたたえた歌です。題詞には天皇の名が書かれておらず、持統天皇とする説が多いものの、天武天皇や文武天皇とする説もあります。
草壁皇子の挽歌でも、人麻呂は天地のはじめに神々が集まった場面から歌い起こし、皇子を天から降った日の御子として描いています。天武天皇と持統天皇の時代は、天皇を神とする考え方が形をとっていった時代です。人麻呂の言葉は、それを歌のかたちで支えたことになります。
SPOT雷丘いかづちのおか雷を捕らえた話が残る小さな丘。東側は小墾田宮の推定地。アクセス:近鉄橿原神宮前駅から周遊バス「豊浦」下車 徒歩約10分スポットのページを見る →
人麻呂は、廃れた都も詠んでいます。天智天皇が営んだ近江の大津宮は、壬申の乱のあと捨てられました。その跡を訪ねた人麻呂の歌です。
ささなみの 志賀の辛崎 幸(さき)くあれど 大宮人の 船待ちかねつ(巻一・30)
辛崎は変わらずにあるのに、船遊びをした宮廷の人びとは、もう戻ってこない。勝った天武天皇の側の宮廷に仕えながら、負けた側の都を悼んだ歌です。
692年ごろ、まだ少年だった軽皇子(かるのみこ、のちの文武天皇)が、宇陀の安騎野(あきの)に狩りに出ました。父の草壁皇子もかつて狩りをした野です。従った人麻呂の一首は、とくによく知られています。
東(ひむがし)の 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ(巻一・48)
東の空に夜明けの光が立ち、振り返ると西に月が沈んでいく。昇る光を若い皇子に、沈む月を亡き父に重ねて読む人も多い歌です。
人麻呂は、自分の妻を詠んだ歌も残しています。
ひとつは、軽(かる)の里に住む妻を亡くしたときの長歌です。軽は、いまの橿原市大軽町のあたりで、明日香村のすぐ西にあたります。「天飛ぶや 軽の道は 我妹子(わぎもこ)が 里にしあれば」と歌い起こし、人目を忍んで通った妻の死を嘆きます。
もうひとつは、石見国(いまの島根県西部)で別れた妻を思う歌です。「小竹(ささ)の葉は み山もさやに さやげども 我は妹思ふ 別れ来ぬれば」(巻二・133)。山じゅうの笹の葉がざわめいていても、私は妻のことばかり思う、別れてきたので、という一首です。
『万葉集』には、人麻呂が石見国で死を前にして詠んだという歌があります。
鴨山の 岩根しまける 我をかも 知らにと妹が 待ちつつあるらむ(巻二・223)
続いて、妻の依羅娘子(よさみのおとめ)が夫の死を嘆く歌も載っています。けれども、鴨山がどこなのかは分かっていません。歌人の斎藤茂吉は島根県美郷町の湯抱(ゆがかい)を推し、益田市には、人麻呂が亡くなった鴨島が地震で海に沈んだという伝えが残ります。
この一連の歌は、人麻呂の死を題材に、のちの人が物語のように組み立てた歌語りではないか、という見方もあります。死に場所が分からないのではなく、もともと物語の中の場所だったのかもしれません。
柿本氏は、奈良盆地の北東部、いまの天理市のあたりを本拠とした豪族です。684年の八色の姓で、臣(おみ)から朝臣(あそん)に上がりました。『万葉集』が「柿本朝臣人麻呂」と書くのは、このためです。
一族には、正史に名を残した人もいます。681年に小錦下の位を授けられた柿本臣猨(さる)は、708年に従四位下で亡くなったと『続日本紀』に記されています。正史に名が載るのは、たいてい五位以上の位を得た人です。人麻呂はそこまで上らなかった下級の役人だったから記録がない、というのが一般的な理解です。
それでも、人麻呂の実像を疑う声は消えていません。
ひとつは、人麻呂は一人の歌人ではなかった、という見方です。正史に記録がなく、自作の歌と「人麻呂歌集」の歌の境目もはっきりしない。宮廷で歌をつくった人びとの作や、柿本氏のもとで伝えられた歌が、「人麻呂」という一つの名のもとに集められたのではないか、というのです。
実在を前提にしながら、通説と大きく異なる人物像を描いた説もあります。哲学者の梅原猛は『水底の歌』(1973年)で、人麻呂はもとは高い位にあり、罪を得て石見に流され、水死させられたと論じました。さらに、先の柿本猨と同じ人物だとも考えています。話題を呼んだ説ですが、国文学や歴史学の研究者のあいだでは支持されていません。
伝説が人麻呂を大きくしていったのも確かです。百人一首の「あしひきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む」は人麻呂の歌とされていますが、『万葉集』では作者の分からない歌として載っています。名高い歌が、名高い歌人のもとへ集まっていったのです。
いまの研究では、題詞に人麻呂の作と書かれた歌については、持統・文武の時代に宮廷に仕えた一人の歌人の作とみるのが大勢です。ただ、その人の生涯について確かに言えることは、驚くほど少ないままです。
905年ごろにまとめられた『古今和歌集』の仮名序は、人麻呂を「歌のひじり」と呼びました。平安時代の終わりには、人麻呂の肖像を掛けて歌を供える「人麿影供(ひとまろえいぐ)」が始まり、各地に人丸神社が建てられていきます。
正史に一行も書かれなかった下級の役人が、千年のあいだに歌の神になった。人麻呂という名には、一人の歌人の生涯と、それを受け取った後の時代の思いとが、分けがたく重なっています。
雷丘は、飛鳥寺から北西へ歩いて10分ほどの小さな丘です。ふもとに「大君は神にしませば」の歌を刻んだ説明板が立っています。人麻呂が軽の妻のもとへ通った道は、ここからさらに西の、橿原市の大軽町のあたりと考えられています。
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いかづちのおか
雷を捕らえた話が残る小さな丘。東側は小墾田宮の推定地。

あすかきゅうせき
複数の宮が重なる、飛鳥の政治の中心地。

ならけんりつまんようぶんかかん
『万葉集』を軸にした古代文化の総合拠点。
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