飛鳥の明日香の里を(明日香村)/コラム/聖徳太子とは誰だったのか ― 橘寺に生まれ、斑鳩へ移った皇子
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冠位十二階、憲法十七条、遣隋使。教科書でおなじみの聖徳太子は、明日香の橘寺で生まれたと伝えられます。日本書紀が描く太子の歩みと、「聖徳太子」という名前の成り立ちをたどります。
聖徳太子は、574年に用明天皇と穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)のあいだに生まれたとされます。本来の名は厩戸(うまやど)。『日本書紀』は、母が宮中を見回っていて厩の戸に当たったとき、苦しむことなく生まれたと記しています。
生まれた場所として伝わるのが、明日香の橘寺です。この地には欽明天皇の別宮があり、用明天皇と間人皇女が滞在していたときに太子が生まれた、と寺は伝えています。
「聖徳太子」は、生きていたころの名前ではありません。『日本書紀』では「厩戸皇子」「豊聡耳(とよとみみ)」「上宮(かみつみや)」などと呼ばれ、「聖徳太子」の名は8世紀半ばの『懐風藻』に見えるのが早い例とされます。亡くなったあとに、その徳をたたえて贈られた呼び名です。
「豊聡耳」には、一度に十人の訴えを聞き分けたという話が添えられています。のちに広く知られる「十人の話を同時に聞いた」という逸話の、もとになった記事です。
近年の教科書では「厩戸王(聖徳太子)」のように、生前の名と並べて書くものが増えました。2017年には学習指導要領の改訂案で「厩戸王」を主とする表記が示されましたが、反対の声が多く、「聖徳太子」に戻されています。
太子の父・用明天皇の母は堅塩媛(きたしひめ)、母・間人皇女の母は小姉君(おあねのきみ)。どちらも蘇我稲目の娘です。太子は、父方からも母方からも蘇我氏の血を引いていました。
587年、仏教をめぐって蘇我馬子と物部守屋が戦ったとき、太子は馬子の側につきます。戦いのさなかに四天王に勝利を祈り、勝てば寺を建てると誓ったと伝えられ、これが大阪の四天王寺の始まりとされます。
592年の末、叔母にあたる推古天皇が豊浦宮で即位します。『日本書紀』は翌593年、太子が皇太子となって政をまかされたと記します。ここから、推古天皇・蘇我馬子・太子の三人が並ぶ時代が始まりました。
603年には冠位十二階を定め、家柄ではなく働きに応じて冠を与える仕組みをつくります。604年には憲法十七条。「和を以て貴しと為す」で始まる、役人の心構えを説いた条文です。607年には小野妹子を隋へ遣わしました。
ただし、これらを太子がひとりで成し遂げたわけではありません。『日本書紀』の記事の多くは、太子と馬子が並んで登場します。620年に「天皇記」「国記」という歴史書をまとめたときも、皇太子と嶋大臣(馬子)がともに議って記した、と書かれています。
601年、太子は斑鳩(いかるが)に宮を建てはじめ、605年に移り住みます。飛鳥から北西へ20キロほど離れた土地です。隣に建てた斑鳩寺が、のちの法隆寺です。
なぜ飛鳥を離れたのかは分かっていません。仏教の研究に打ち込むためだったとも、馬子との距離をとったのだとも言われます。
法隆寺金堂の釈迦三尊像の光背の銘文は、太子が622年2月22日に亡くなったと記します。前の日には、妃の膳大郎女(かしわでのおおいらつめ)が先に亡くなっていました。『日本書紀』は前年の621年としており、ここは記録によって食い違います。
墓は大阪府太子町の叡福寺にある磯長墓(しながのはか)とされます。太子の家系は、643年に子の山背大兄王が蘇我入鹿に攻められ、一族とともに自害したことで絶えました。
亡くなったあと、太子は次第に信仰の対象になっていきます。観音の生まれ変わりとする説、未来を見通したという話。平安時代以降は各地に太子堂が建ち、職人の祖としても祀られました。昭和のお札に何度も肖像が使われたことで、いまも多くの人が顔を思い浮かべる歴史上の人物です。
その姿があまりに大きくなったぶん、どこまでが実際の厩戸皇子なのかという問いも生まれました。太子の事績は日本書紀の編者が作り上げたものだとする説や、蘇我馬子との関係から太子像を読み直す説もあります。
橘寺では、本堂(太子堂)に聖徳太子坐像が祀られています。北へ歩けば川原寺跡、さらに飛鳥寺。推古天皇が即位した豊浦宮跡も、甘樫丘の北のふもとにあります。太子が生まれ、育ち、政に加わった場所が、明日香の中でまとまって残っています。
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たちばなでら
聖徳太子の生誕地と伝わる寺。二面石が残る。

とゆらのみやあと
推古天皇が即位した、飛鳥時代のはじまりの宮の跡。

あすかでら・そがのいるかくびづか
日本最古の本格寺院。飛鳥大仏が今も同じ場所に座す。
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