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両槻宮 ― 多武峰の頂に建てられた「天の宮」

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斉明天皇は、飛鳥の東の山の頂に、二本の槻の木のそばの建物を造らせました。名前は両槻宮、またの名を天宮。記事は残っていますが、跡はまだ見つかっていません。

二度位についた女帝

斉明天皇は、舒明天皇の皇后で、中大兄皇子(のちの天智天皇)、大海人皇子(のちの天武天皇)、間人皇女の母にあたります。594年の生まれです。

642年、夫の舒明天皇が亡くなったあと、皇極天皇として位につきました。645年の乙巳の変で蘇我入鹿が討たれると、弟の孝徳天皇に位を譲り、都は難波へ移ります。やがて中大兄皇子らとともに飛鳥へ戻り、孝徳天皇が亡くなった翌655年、飛鳥板蓋宮で再び位につきました。一度退いた天皇がもう一度即位したのは、これが初めてです。

その年の冬に板蓋宮が焼け、天皇はいったん飛鳥川原宮へ移り、翌656年、岡本の地に新しい宮を構えます。後飛鳥岡本宮です。

斉明天皇の7年たらずの治世は、工事の連続でした。同じ656年には吉野にも宮を造り、660年には中大兄皇子が水時計を作って飛鳥の水落に置いています。石神の一帯には、蝦夷や外国の使者をもてなす施設が設けられました。『日本書紀』は天皇を「時に興事を好む」、工事を好んだと書いています。両槻宮は、そうした工事のひとつとして記録されました。

談山神社の拝殿の回廊。吊り灯籠ごしに多武峰の山が見える
談山神社の回廊から見る多武峰。両槻宮はこの山のどこかに建てられた

二本の槻のそばに

同じ656年の記事に、次の一節があります。

「田身嶺(たむのみね)に、冠らしむるに周れる垣を以てす。復、嶺の上の両つの槻の樹の辺に、観を起つ。号けて両槻宮とす。亦は天宮と曰ふ。」

山の頂を垣でぐるりと囲み、頂上の二本の槻の木のそばに「観」を建てた。名は両槻宮(ふたつきのみや)、また天宮(あまつみや)。田身嶺は「たむ」と読むと注がついていて、いまの多武峰(とうのみね)のことと考えられています。槻はケヤキの古い呼び名で、大きな槻の木は神の宿る木とされました。

「観」とは何か

この短い記事でいちばん議論されてきたのが「観」の一字です。

観は、高く築いて遠くを見る建物、高殿を指します。一方、中国では道教の寺院も「観(道観)」と呼びます。天宮という名も、道教では仙人や天帝の住む天上の宮を指す言葉です。そこで、両槻宮を道教の施設とみる説が古くから出されてきました。斉明天皇の時代には、亀形石造物や須弥山石のような、仙境を思わせる石造物も造られています。

ほかに、仏教のお堂とみる説、山の上の守りの施設、つまり城とみる説もあります。663年の白村江の敗戦のあとには、西日本の各地で山城が築かれました。ただし両槻宮の記事はそれより前の656年で、記事のどこにも守りの話は出てきません。

どの説も、建物そのものが見つかっていない以上、決め手を欠いています。

なお、両槻宮が建てられたあとも、宮の東の山は特別な場所とみられていたようです。675年には、ある人が宮の東の岳に登り、人を惑わす言葉を口にして、自ら首を切って死んだという記事があります。

四十年後の行幸

両槻宮は、建てたきりの施設ではありませんでした。

『日本書紀』は、持統天皇が693年9月5日に多武嶺へ、696年3月3日に二槻宮(ふたつきのみや)へ出かけたと記します。さらに『続日本紀』には、702年3月17日に大倭国へ命じて「二槻離宮」を修理させた記事があります。斉明天皇のころから半世紀近くたっても、宮は使われ、手入れされていたことになります。

9月9日は天武天皇の命日です。宴を開きにくいこの日を避け、少し前の5日に出かけたとみる見方もありますが、記事からは目的まで分かりません。696年の3月3日は、のちに上巳の節句となる日です。

酒船石遺跡ではないのか

丘の裾の亀形石造物と小判形石造物。石敷の広場と石垣に囲まれ、手前は竹林
酒船石遺跡の亀形石造物。丘の上には砂岩の石垣が巡っていた

飛鳥宮跡の東の丘では、1992年から砂岩の石垣が見つかり、酒船石遺跡と呼ばれるようになりました。『日本書紀』は両槻宮の記事に続けて「宮の東の山に石を累ねて垣とす」と書いています。この丘を両槻宮そのものとみる人も少なくありません。

ただ、発掘を担当した側からは慎重な意見が出ています。丘の石垣は7世紀後半に崩れ、ほとんど直されていません。684年の大地震で倒れたとみられています。696年に天皇が訪れ、702年に修理された両槻宮とは、うまく合いません。「宮の東の山の石垣」と「田身嶺の両槻宮」は、別の場所と考えたほうがよい、というのが発掘報告の立場です。

まだ見つかっていない宮

では、多武峰のどこにあったのか。談山神社のあたり、頂上の御破裂山(ごはれつやま)、談山神社の西の念誦崛(ねずき)などが候補に挙がりますが、どこからも、それと分かる跡は出ていません。険しい山の頂に大きな建物を置けたのかという疑問もあり、広い平地のとれる談山神社のあたりを考えやすいとする意見もあります。

記事は残り、行幸も修理も記録されているのに、場所が分からない。両槻宮は、飛鳥でいちばん記録のはっきりした「見つかっていない宮」です。

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