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両槻宮は、砦だったのか ― 乙巳の変のあとの不穏と、山の上の「観」

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斉明天皇が多武峰の頂に建てた両槻宮は、神仙の宮とも、道教の寺院ともいわれてきました。もう一つ、山の上の砦だったという見方があります。乙巳の変から十年あまり、飛鳥は本当に落ち着いていたのでしょうか。

山の頂を垣で囲む

656年、『日本書紀』は斉明天皇の工事をこう記します。

「田身嶺に、冠らしむるに周れる垣を以てす。復、嶺の上の両つの槻の樹の辺に、観を起つ。号けて両槻宮とす。亦は天宮と曰ふ。」

田身嶺は、飛鳥の東にそびえる多武峰のことです。その頂を、冠をかぶせるように垣でぐるりと囲み、頂上に「観」を建てた。

この記事を、山の上の砦の記録として読む説があります。山の頂を土塁や石垣で鉢巻のように囲むのは、古代の山城によく見られる形です。「観」は高殿を指す字ですが、中国の宮城では門の両脇に立つ物見の楼も観と呼びました。山頂を囲む垣と、遠くを見渡す高い建物。並べてみると、たしかに砦の姿に重なります。

談山神社の拝殿の回廊。吊り灯籠ごしに多武峰の山が見える
談山神社から見る多武峰の山。両槻宮はこの山の頂に建てられた

乙巳の変のあとの十年

砦が要るほど、飛鳥は不穏だったのか。乙巳の変から両槻宮までの十年あまりを見ると、事件が続いています。

645年、蘇我入鹿が宮中で討たれ、父の蝦夷は自邸に火を放って亡くなりました。その3か月後、皇位の候補だった古人大兄皇子が謀反の疑いで討たれます。649年には、乙巳の変で中大兄皇子の側についた蘇我倉山田石川麻呂が、謀反の疑いをかけられて山田寺で自害しました。

653年には、中大兄皇子が都を飛鳥へ戻すよう求め、孝徳天皇が拒むと、母の皇極上皇、孝徳天皇の皇后である間人皇女、大海人皇子、そして多くの役人を連れて、飛鳥へ引き上げてしまいます。難波に一人残された孝徳天皇は、翌年亡くなりました。斉明天皇の再即位は、こうした緊張の延長にあります。

両槻宮のあとも、658年には有馬皇子が謀反の疑いで捕らえられ、殺されています。蘇我氏が倒れたあとの政権の中で、だれがいつ敵になるか分からない状況が続いていたのです。

海の向こうの戦争

国の外も穏やかではありませんでした。

645年、唐の太宗は高句麗へ大軍を送ります。651年には、唐の高宗が新羅を支えて百済と高句麗を抑える方針を示し、それは百済の使者を通じて倭にも伝わっていました。倭は653年、654年、659年と、650年代だけで3回も遣唐使を送っています。白雉年間の遣唐使は、唐から新羅を援けるよう求められたともいいます。そして660年、百済は唐と新羅に滅ぼされました。

朝鮮半島の戦争が、いつ海を越えてくるか分からない。そうした時代に、都を見下ろす山の上に囲いと物見の楼を設けたのだとすれば、要塞説には時代背景の裏づけがあることになります。

先例と、後の時代

甘樫丘の園路。石垣ぞいの道が、うっそうとした木立のなかへ続く
甘樫丘。644年、蘇我蝦夷と入鹿はこの丘に家を並べ、城柵を巡らせた

飛鳥の中にも先例があります。『日本書紀』によれば、644年、蘇我蝦夷と入鹿は甘樫丘に家を並べて建て、家の外に城柵を巡らし、門のそばに武器庫を置きました。畝傍山の東にも家を建て、池を掘って城とし、矢を蓄え、いつも五十人の兵に身の回りを守らせていたといいます。丘の上に囲いを巡らせて身を守る発想は、乙巳の変の前から飛鳥にあったのです。

多武峰という山そのものも、守りに向いていました。飛鳥の盆地を見下ろし、吉野へ抜ける峠道にも近い。中世には実際に、多武峰の尾根伝いに砦が連なり、寺の勢力が興福寺などと争う拠点になっています。

また、酒船石遺跡の東の尾根では、1辺1.5メートルの柱穴を持つ掘立柱の塀が稜線に沿って見つかり、近くの八釣マキト遺跡でも同じような塀が出ています。飛鳥を取り巻く守りの施設だった可能性が指摘されていますが、時期はまだ分かっていません。

要塞説の弱いところ

一方で、要塞説には弱いところもあります。

まず、記事の言葉です。『日本書紀』は、のちに築かれた高安城(667年)や九州の大野城のような山城を、はっきり「城」と書いています。両槻宮の記事にあるのは「宮」と「観」で、守りや兵を思わせる言葉はありません。もう一つの名の「天宮」も、砦の名前としては不似合いです。

次に、使われ方です。持統天皇は693年と696年にこの宮へ出かけ、702年には「二槻離宮」として修理されています。離宮という呼び方は、行幸先の宮殿のものです。

そして、跡がまだ見つかっていないことです。宮の東の山の石垣とされる酒船石遺跡の砂岩の壁は、高さ1メートルほどで表面を磨いてあり、発掘の担当者は守りより見た目を重んじた造りとみています。ただし、それが両槻宮そのものかどうかも決まっていません。

一つの施設に、いくつもの顔

道教の道観、神仙の宮、天皇の祭りの場、そして砦。両槻宮の説がこれほど分かれるのは、記事が短く、跡が見つかっていないからです。

ただ、これらは必ずしも互いに打ち消し合うものではありません。都を見下ろす山の上の施設なら、祭りの場であると同時に、いざというときの拠り所にもなり得ます。斉明天皇の時代は、新しい思想を取り込む時代であり、同時に内外の緊張の中にあった時代でもありました。両槻宮は、その両方を映しているのかもしれません。

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