飛鳥の明日香の里を(明日香村)/コラム/柱を埋めるか、石に載せるか ― 飛鳥の宮と寺を分けた二つの建て方
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飛鳥の遺跡を歩くと、大きな石が並んでいる場所と、白い杭が立っているだけの場所があります。その違いは、建物の建て方の違いです。柱を地面に埋める掘立柱と、石の上に載せて瓦を葺く礎石建ち。二つの工法の違いと、それぞれの代表的な建物をたどります。
掘立柱(ほったてばしら)は、地面に穴を掘り、そこへ柱の根元を直接埋めて立てる建て方です。縄文時代から続く、この国のいちばん基本的な工法でした。
土台が要らないので、早く建てられます。屋根は茅や檜皮(ひわだ)、板で葺く、軽い造りです。
弱点は、柱の根元が土の湿気で腐ることです。20年から30年ほどで建て直しが必要になったといわれます。
もう一つの礎石建ちは、まず土を突き固めて基壇という壇を築きます。その上に礎石という平らな石を据え、柱はその石の上に載せるだけです。柱が土に触れないので腐りにくく、建物は何百年ももちます。
屋根には焼いた瓦を葺きます。瓦は重く、その重さが柱を押さえて建物を安定させます。基壇・礎石・瓦は一組の技術で、どれか一つだけを取り入れることはできませんでした。
この工法は、飛鳥寺の造営とともに入ってきました。『日本書紀』によると、588年に百済から寺工(てらたくみ)、鑪盤博士(ろばんはかせ)、瓦博士、画工が送られてきています。
飛鳥寺は、この国で最初に瓦を葺いた建物です。そのころの瓦の一部は、寺が平城京へ移ったあとの元興寺(奈良市)で、いまも屋根に使われています。
不思議なことに、この新しい工法が使われたのは、長いあいだ寺だけでした。天皇が住み、政治を行う宮は、その後も100年近く掘立柱で建てられ続けます。
理由ははっきりしていません。天皇が代わるたびに宮を移していたので、長くもつ建物は要らなかったという見方があります。瓦や礎石は仏のための異国の様式で、宮には伝統の建て方がふさわしいと考えられていた、という見方もあります。
その違いは、いまの遺跡の姿にそのまま出ています。寺の跡には礎石が残ります。川原寺跡の中金堂跡には、白い大理石の礎石が当時の位置のまま並んでいます。
掘立柱の建物は、柱が朽ちると穴の跡しか残りません。宮の跡で白い杭や植え込みが柱の位置を示しているのはそのためです。
飛鳥宮跡は、同じ場所に宮が何度も建て替えられた遺跡です。そのひとつが、643年に皇極天皇が移った飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)です。
「板蓋」という名前がわざわざ付いたのは、板葺きが珍しかったからだと考えられています。当時の宮は、茅や檜皮で葺くのが普通でした。建物は掘立柱で、まわりには石が敷かれていました。
いま見られる石敷きの広場や井戸の跡は、最も新しい時期の飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)のころのものです。天武・持統天皇の宮も、まだ掘立柱でした。
同じく掘立柱の建物の跡には、稲渕の飛鳥稲淵宮殿跡や石神遺跡があります。
礎石建ちの建物の姿がいちばんよく分かるのは、山田寺の東回廊です。1982年の発掘で、倒れた姿のまま土の中から出てきました。柱や窓の連子(れんじ)まで残り、現存する木造建築の部材として最も古いものです。
回廊は、組み直した部材が奈良文化財研究所 飛鳥資料館に展示されています。基壇・礎石・柱・瓦屋根という一組の構造を、実物で見ることができます。
694年に移った藤原宮で、宮殿ははじめて礎石建ち・瓦葺きになります。大極殿や朝堂院といった、儀式や政治を行う建物です。使われた瓦は200万枚ともいわれます。
一方で、天皇が暮らす内裏には掘立柱が残りました。国の顔となる建物には大陸の様式を、暮らしの場には伝統の建て方を使ったことになります。
いま藤原宮跡に立つ朱色の列柱は、柱の位置を示す復元です。
掘立柱の伝統は、いまも伊勢神宮の社殿に受け継がれています。柱を地面に埋めて建て、20年ごとに建て替える式年遷宮は、持統天皇の時代に1回目が行われたと伝わります。
寺には礎石と瓦、神の社には掘立柱。飛鳥で分かれた二つの建て方が、1300年後のいまも並んで続いています。
礎石が残る跡:飛鳥寺、川原寺跡、山田寺跡、本薬師寺跡、大官大寺跡。
杭や植え込みで柱の位置を示す跡:飛鳥宮跡、飛鳥稲淵宮殿跡、石神遺跡。
両方がある跡:藤原宮跡。
足もとに石があるか、杭があるか。それだけで、その場所が仏のための建物だったのか、人が暮らし政治を行った場所だったのかが見えてきます。