飛鳥の明日香の里を(明日香村)/コラム/大臣と大連 ― 「おみ」と「むらじ」は、どこが違うのか
公開日
蘇我馬子は大臣、物部守屋は大連。どちらも朝廷の最上位ですが、「臣」と「連」はもともと成り立ちの違う呼び名でした。土地の名を名乗る豪族と、仕事の名を名乗る家。その違いから、飛鳥の政治を読み解きます。
飛鳥時代のはじめ、朝廷の頂点には二人の実力者が並んでいました。大臣(おおおみ)の蘇我馬子と、大連(おおむらじ)の物部守屋です。587年の丁未の乱は、この二人の争いでした。
どちらも「大」が付く最上位で、現代の感覚でいえば同格の大臣が二人いたようにも見えます。けれども「臣(おみ)」と「連(むらじ)」は、もともと成り立ちのまったく違う呼び名でした。
この時代の豪族は、「蘇我」「物部」のような氏(うじ)の名と、「臣」「連」のような姓(かばね)を持っていました。姓は、その家が大王(おおきみ)に対してどういう立場にあるかを示す称号です。
臣の家のなかでいちばん力のある者が大臣、連の家のなかでいちばん力のある者が大連になった、と考えられています。
臣の姓を持つ家は、葛城(かづらき)、平群(へぐり)、巨勢(こせ)、蘇我(そが)、紀(き)など。どれも、奈良盆地のなかの地名です。自分の本拠の土地の名を、そのまま家の名にしています。
つまり臣は、大王に仕える前から、自分の土地と人を持っていた豪族です。大王家とは主従というより、肩を並べる協力者に近い立場から出発したと考えられています。
その表れのひとつが、后妃です。5世紀の葛城氏は大王家に次々と娘を嫁がせ、仁徳天皇の皇后・磐之媛(いわのひめ)も葛城の出とされます。6世紀には蘇我稲目の娘たちが欽明天皇の妃となり、そこから用明・崇峻・推古の三代の天皇が生まれました。
臣の家の多くは、系譜のうえでは昔の天皇の子孫を名乗りました。葛城・平群・巨勢・蘇我・紀は、いずれも武内宿禰(たけうちのすくね)の子孫とされています。
一方、連の姓を持つ家は、大伴(おおとも)、物部(もののべ)、中臣(なかとみ)、土師(はじ)、忌部(いんべ)など。こちらは地名ではありません。
大伴は「多くの伴(とも)を率いる」、物部は武器や軍事、刑罰にかかわる、中臣は神と人との仲立ちをする祭祀、土師は土器や埴輪づくりと葬送、忌部は祭具をつかさどる。家の名が、そのまま大王のもとでの仕事を表しています。
連は、それぞれの仕事を受け持つ人びとの集団(部、べ)を率いて、大王に直接仕える家でした。自前の土地から力を得た臣に対して、連の力は大王に仕えることそのものから来ています。大王の側近の職能集団、といってよいでしょう。
系譜のうえでも違いがあります。連の家の多くは、天皇ではなく神の子孫を名乗りました。物部は饒速日命(にぎはやひのみこと)、中臣は天児屋命(あめのこやねのみこと)を祖とします。
『日本書紀』によると、大臣の地位は家から家へ移っていきました。
5世紀の葛城円(つぶら)は、安康天皇を殺した眉輪王(まよわのおおきみ)をかくまったため、のちの雄略天皇に攻められて滅びます。続く平群真鳥(まとり)は、武烈天皇の代に大伴金村に討たれました。継体天皇の代には巨勢男人(おひと)、そして宣化天皇の代から蘇我稲目が大臣となり、馬子、蝦夷と三代にわたって続きます。
大王と並ぶほどの力を持った家は、それだけに大王とぶつかり、倒されてきたことになります。
大連は、大伴氏と物部氏がほぼ交代で、ときには二人並んで務めました。
6世紀のはじめ、大伴金村は越前から継体天皇を迎えた中心人物とされ、物部麁鹿火(あらかい)は九州の磐井の乱をしずめる将軍となりました。どちらも、大王の軍を率いる家です。
その大伴金村は、欽明天皇の代に朝鮮半島の政策の失敗を物部尾輿らに責められ、退きました。それからは物部氏が大連を務め、最後の大連が物部守屋です。
守屋が587年に討たれたあと、大連は二度と置かれませんでした。朝廷の頂点に残ったのは、大臣の蘇我氏だけです。
ここまでの話は、ほとんどが『日本書紀』によっています。5世紀の大臣・大連の記事については、のちの時代のしくみを古い時代にさかのぼらせて書いたのではないか、という見方もあります。大臣と大連が確かに並んでいたといえるのは、6世紀の蘇我氏と物部氏・大伴氏のころから、と考える研究者も少なくありません。
臣と連の区別も、すべての家にきれいに当てはまるわけではありません。地方の豪族にも、吉備臣・出雲臣のように臣を名乗る家がありました。「土地の豪族の臣、仕事の家の連」は、大づかみの見取り図として受け取ってください。
645年の乙巳の変で蘇我蝦夷・入鹿が滅び、大臣の時代も終わります。かわりに置かれたのが、左大臣と右大臣です。こちらは家柄で受け継ぐ地位ではなく、大王が任じる官職でした。
684年には天武天皇が八色の姓(やくさのかばね)を定め、姓を八つの位に並べ直しました。臣は6番目、連は7番目に下がります。有力な臣の家の多くは上から2番目の朝臣(あそん)を、有力な連の家の多くは3番目の宿禰(すくね)を新たに与えられました。物部や中臣のように、連から朝臣に上がった家もあります。
土地に根ざした豪族と、大王に仕える職能の家。その違いは、律令の位と官職のなかに組み込まれ、少しずつ見えなくなっていきました。
蘇我氏の本拠は、この飛鳥でした。馬子は飛鳥川のほとりに庭園のある屋敷を構え、「嶋大臣(しまのおおおみ)」と呼ばれました。その近くにある石舞台古墳は、馬子の墓とする説が有力です。
SPOT石舞台古墳いしぶたいこふん巨石が積み上がった日本最大級の横穴式石室。明日香を象徴する風景。アクセス:近鉄橿原神宮前駅から周遊バス「石舞台」下車すぐスポットのページを見る →
蝦夷と入鹿は、甘樫丘に家を並べて建てたと『書紀』は記します。大臣の家は、宮のある飛鳥の中心を見下ろす丘の上にありました。
SPOT甘樫丘あまかしのおか飛鳥を一望する丘。蘇我氏の邸宅があったと伝わる。アクセス:近鉄橿原神宮前駅から周遊バス「甘樫丘」下車すぐスポットのページを見る →
一方、大連の物部氏の本拠は河内、大伴氏の本拠は摂津や大和の各地にありました。土地に根ざした大臣の家の跡が、飛鳥に残っていることになります。
RELATED SPOT

いしぶたいこふん
巨石が積み上がった日本最大級の横穴式石室。明日香を象徴する風景。

あまかしのおか
飛鳥を一望する丘。蘇我氏の邸宅があったと伝わる。

あすかでら・そがのいるかくびづか
日本最古の本格寺院。飛鳥大仏が今も同じ場所に座す。
RELATED COLUMN