飛鳥の明日香の里を(明日香村)/コラム/天に近づく建物 ― 漢の武帝の承露盤と、二本の槻
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漢の武帝は、天から降る露を受けるため、銅の柱の上に仙人の像を立てました。二本の槻の木のそばに建てられた「天宮」は、その日本版だったのではないか。そんな大胆な見方があります。
斉明天皇が656年、多武峰の頂の二本の槻の木のそばに建てた両槻宮は、天宮(あまつみや)とも呼ばれました。山の上に建てた、天の名を持つ宮。この名前から、天や仙人に近づくための施設だったのではないか、と考える研究者がいます。
斉明天皇の時代は、こうした発想と相性のよい時代でした。吉野に宮を設け、飛鳥の東の丘には亀形石造物を据えています。亀は、仙人の住む蓬莱山を背に負う生きものとして、中国で好まれた題材です。
手がかりは古代中国にあります。紀元前2世紀の漢の武帝は、不老不死を求めて神仙思想に傾倒した皇帝でした。仙人は高いところを好むと考えられ、武帝は柏梁台、通天台、神明台といった高い台や建物を次々に築かせます。伝わる高さは数十丈とも記されますが、誇張も含まれているとみられます。
なかでも知られるのが承露盤です。銅の柱の上に、手のひらを上に向けた仙人の像を立て、その手に盤を捧げ持たせる。天から降りる露をそこに集め、玉の粉と混ぜて飲めば長生きできる、と信じられていました。建章宮の神明台跡は、いまも西安の郊外に土の基壇が残っています。北京の北海公園には、後の清の時代に造られた仙人承露盤が立っていますが、これは後の時代の一つの姿にすぎません。
武帝の承露盤は、銅の柱が天に向かって装置を支えていました。両槻宮は、二本の槻の木のそばに建てられています。
二本の大木を柱に見立て、その間に建物を設けたのではないか。天に近い山の頂、天宮という名、二本の柱。中国の天に近づく装置を、日本の木と木造の建物に置き換えたものではないか、という仮説です。
これは、唱えた本人も推測だと断っている、独自の見方です。漢の宮殿と日本の山上の建物では、規模も構造もまるで違います。両槻宮の建物も、それに使った石や材木も見つかっていない以上、確かめようがありません。
もう一つ、別の角度からの議論もあります。
唐の制度(唐令)では、天を祭るのは皇帝自身の役目でした。冬至などに、皇帝が都の南の円丘で天を祭ります。西安には、隋・唐の円丘の跡が、階段を持つ円い壇として残っています。
ところが日本の大宝令の神祇令は、冒頭で、天神地祇は神祇官が定めどおりに祭る、と定めています。天皇が自ら天を祭るという唐の形は、そのままは入ってきませんでした。天皇自身が行う祭りとして残ったのは、新嘗祭や、即位のあとに一度だけ行う大嘗祭のような、稲の収穫にかかわる祭りでした。中国の皇帝の祭りとは、性格がかなり違います。
大宝令ができる前には、天皇が自ら天に近い場所へ出かけて祭る形が試みられ、のちに神祇官が祭る制度へ落ち着いたのではないか。両槻宮も、そうした天皇の祭りの場だったのではないか。そうみる研究者もいます。持統天皇が696年に二槻宮へ出かけ、大宝令ができた翌年の702年に二槻離宮が修理されているのは、この見方からも興味深い記録です。ただ、それを直接示す史料はありません。
両槻宮の性格については、道教の寺院とする説、仏教のお堂とする説、山城とする説が出されてきました。神仙思想の高い建物になぞらえる見方は、その列に新しく加わった一つです。
当たっているかどうかは、多武峰で建物の跡が見つかるまで分かりません。見つかれば、出てくる土器や瓦、石の産地が、建てられた時期と姿を教えてくれるはずです。それまでは、二本の槻、天宮という名、山の頂という三つの言葉を、東アジアの中に置いて読み直してみる。記事が短いからこそ、こうした読み方の余地が残されています。
記事を東アジアの中に置いてみると、斉明天皇の時代の飛鳥が、海の向こうの思想や技術をどれほど熱心に取り込もうとしていたかも見えてきます。遣唐使が行き来し、百済や高句麗から人が渡ってきた時代です。両槻宮は、その空気の中で建てられました。
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