飛鳥の明日香の里を(明日香村)/コラム/宮と都

律令国家を仕上げた女帝として、夫の天武天皇と一続きに語られます。ただ、彼女は天智天皇の娘でもありました。父の跡を継ぐという意識のほうが強かったのではないか、と考えてみます。

古代の大王位は、兄から弟へ渡ることが少なくありませんでした。父から子へという線を引こうとして、一度は失敗します。二度目に定着させたのが持統天皇です。

神武天皇が即位した橿原。いまは橿原市の畝傍山麓とされています。御所市の柏原(かしはら)にも、同じ伝承が残っています。

三輪山のふもとの纒向(まきむく)から、磐余(いわれ)を経て飛鳥へ。王権の場所は、南へ十キロほどのあいだを移っていきました。

藤原京は中国の古典『周礼』が説くとおり、宮を都の真ん中に置きました。ところが手本にしたはずの長安は、そうなっていません。なぜ本家が経典を外したのかを追うと、隋唐という王朝の素性が見えてきます。

690年、日本で持統天皇が即位した年に、唐では則天武后が皇帝になりました。その半世紀前には新羅にも女王が立っています。7世紀の東アジアで、なぜ女性の君主が続いたのか。

2026年7月26日に登録されました。選ばれたのは宮殿と寺と墓の跡だけ、しかもほとんどが地下にあります。この19件が示しているのは、日本という国のしくみができあがっていく百年あまりです。

日本で初めての本格的な都城が、わずか十六年で放棄されました。水はけの悪さ、宮の置き方、そして三十年ぶりに派遣された遣唐使が持ち帰ったもの。いくつかの説が語られています。