飛鳥の明日香の里を(明日香村)/コラム

田の縁に沿って、定規で引いたようにまっすぐ並ぶ赤。自然に生えたものではありません。人が球根を運んで置いたものです。

道ばたや畦に咲く小さな花。名前が分かると散歩の景色が変わります。ただ、その多くは飛鳥時代にはこの村に無かった花です。

三百年以上にわたって大きくなり続けた墳丘が、七世紀のうちに小さくなり、八世紀の初めに途絶えます。理由はひとつではありません。

隋へ、唐へ。数十年を海の向こうで過ごし、帰ってきた人たちがいます。彼らが持ち帰ったのは、物ではなく、国の仕組みそのものでした。

藤原鎌足の長男は、十一歳で唐へ渡りました。帰ってきたのは二十三歳の秋。そしてその年の暮れに没しています。毒殺だったと書き残したのは、身内でした。

円でも方形でもない、八つの辺をもつ墳丘。七世紀の半ばから八世紀の初めまでの六十年ほど、この形は天皇の陵にだけ使われました。

海に近い大阪の水路か、それとも飛鳥の小さな池か。『日本書紀』が仏像を捨てた場所として記す「難波の堀江」は、二つの候補を持ったまま今日に至っています。

嘘をついている者は火傷する。正しい者は無傷で済む。『日本書紀』が伝えるその裁きが行われたのは甘樫丘でした。神事はいまも甘樫坐神社に残っています。