飛鳥の明日香の里を(明日香村)/コラム/諸説あり

古代の大王位は、兄から弟へ渡ることが少なくありませんでした。父から子へという線を引こうとして、一度は失敗します。二度目に定着させたのが持統天皇です。

神武天皇が即位した橿原。いまは橿原市の畝傍山麓とされています。御所市の柏原(かしはら)にも、同じ伝承が残っています。

中大兄皇子の「大兄」は、呼び名ではありません。皇位を継ぐ資格を示す言葉です。七世紀の前半、この言葉を持つ皇子が三人いました。

皇極天皇には、舒明天皇に嫁ぐ前にもうけた子がいました。漢皇子(あやのみこ)。『日本書紀』はその名を一度書いたきりで、以後どこにも出てきません。

中臣鎌足が用意した縁組でした。蘇我倉山田石川麻呂の長女が中大兄皇子に嫁ぐ。その婚礼の夜、娘は一族の男に連れ去られます。

三輪山のふもとの纒向(まきむく)から、磐余(いわれ)を経て飛鳥へ。王権の場所は、南へ十キロほどのあいだを移っていきました。

藤原京は中国の古典『周礼』が説くとおり、宮を都の真ん中に置きました。ところが手本にしたはずの長安は、そうなっていません。なぜ本家が経典を外したのかを追うと、隋唐という王朝の素性が見えてきます。

日本で初めての本格的な都城が、わずか十六年で放棄されました。水はけの悪さ、宮の置き方、そして三十年ぶりに派遣された遣唐使が持ち帰ったもの。いくつかの説が語られています。